10月31日の西日本新聞に“悲しみ刻んだ民族大移動”と題して、佐世保市浦頭での敗戦後の引き上げの様子が掲載されていました。 欧米の植民地政策を踏襲した日本は、海外支配の強化に移民を送った。 満州は荒地で、農民の土地を取り上げるしかない。 中国人を追い出した開拓団は、敗戦で立場が逆転した。 戦争が、民族大移動を引き起こし、異国の大地に幾多の悲しみが刻まれた。苦難を乗り越えても、故国への船上で力尽きる人も少なくなかった。 ここ、浦頭での引揚者は140万人。 「少々の雨でん、夜でん、荷物ば大事そうに抱えて、歩いて行きよらした」と、当時の様子を見た人は振り返る。 引揚者は消毒を済ませ、東に約7キロの佐世保引き上げ援護局まで黙々と歩いた。そこで数日を過ごした後、南風崎(はえのさき)駅からそれぞれの郷里に向かった。 「ころ島(中国) 帰りは、そりゃァ悲惨やった」。当時援護局に勤めていた笠野二郎さんは今でも涙ぐむ。 ソ連軍進駐、地元住民の襲撃の中での苦難の逃避行。 着の身着のままで出発港・ころ島にたどり着き、ようやく祖国の土を踏んだ人々は 「あわれな姿やった。女の人は(ソ連兵などの暴行を防ぐため男のように)髪を切っとらした」 国は国内での性病蔓延防止などの目的で、非公式に堕胎や治療を行っていた。 その一方で、当時の援護局には、暴行にあって心に痛手を負った女性らのために、相談に当たった民間の女性グループがあった。 しかし、終戦から半世紀以上を経たいま、当時のメンバーは既に鬼籍に入っている。 そのメンバーの一人の日誌が匿名を条件に見せてもらえた。それには戦争で踏みにじられた女性らの叫びが綴られていた。 《逃避行の途中、子ども3人を病気で失った母親は、死の床にあった長男(13)に頼まれた。 「僕は死んでも魂は死なんから、お母さんとともに、どんなことがあっても骨は日本に連れて帰って」。 だが、盗賊に襲われて遺骨を川に落としてしまう。「私一人どうして帰れましょう。あのとき死ぬ決心をして親子4人でいたなら…」と苦悩する。 また別の母は、引き揚げを待ちながら開拓団で集団生活をしていた際、「娘を中央軍に提出する強引な要求に、ついに拒みきれず」3人の娘を現地の料理店に通わせた。 ようやく引き揚げが決まり喜んだが、娘らは「この体になって何で帰られよう」「お母さんに会うのが一番つらい」と大陸に残った。》 「今の私たちがあるのは、過去の方々の苦労があったればこそ。敬意を払いたい」。華やかに人々が行き交う街から離れ、ひっそりたたずむ慰霊碑に社員らが花を手向ける。── 西日本新聞に掲載されたのは おおよそこのような内容でした。 あの敗戦の荒廃から間もなく60年。目覚しい復興を遂げた日本はいま、どこに行こうとしているのでしょうか。 最近 何か歯車が狂ってきている、また危険な道に踏み込もうとしているのではないか、そう感じるのは私だけでしょうか。 あの悲惨な体験を風化させてはならない。忘れさせてはいけない。それは、あの貴重な体験をした者の使命だと思います。 |