10月31日の西日本新聞に“悲しみ刻んだ民族大移動”と題して、佐世保市浦頭での敗戦後の引き上げの様子が掲載されていました。

   私は2001年の7月に戦争の爪痕を探して佐世保に行きました。そのときの佐世保のページの中に、 この浦頭の“引揚記念平和公園”のことを紹介したことがあります。
 私のこのページを見て、子供の頃からの友人が「実は 俺もあの浦頭から上陸したんだよ」って、電話をくれました。
 彼の両親は先生でした。引き上げに際しては大変な苦労をされただろうと思います。知っていれば、もっと詳しく引き上げの様子を聞いておくのでしたが、今となっては それは叶わないことです。
 そのページの追加補完の意味で、ここに西日本新聞の記事を引用させていただきます。

西日本新聞に掲載された 1946(昭和21年)シンガポールからの到着者
 ──1945(昭和20)年の終戦時、海外在住の日本人は約664万人。日本本土の人口の約10分の1だった。
 欧米の植民地政策を踏襲した日本は、海外支配の強化に移民を送った。
 満州は荒地で、農民の土地を取り上げるしかない。
 中国人を追い出した開拓団は、敗戦で立場が逆転した。
 戦争が、民族大移動を引き起こし、異国の大地に幾多の悲しみが刻まれた。苦難を乗り越えても、故国への船上で力尽きる人も少なくなかった。
 ここ、浦頭での引揚者は140万人。
 「少々の雨でん、夜でん、荷物ば大事そうに抱えて、歩いて行きよらした」と、当時の様子を見た人は振り返る。
 引揚者は消毒を済ませ、東に約7キロの佐世保引き上げ援護局まで黙々と歩いた。そこで数日を過ごした後、南風崎(はえのさき)駅からそれぞれの郷里に向かった。
 「ころ島(中国) 帰りは、そりゃァ悲惨やった」。当時援護局に勤めていた笠野二郎さんは今でも涙ぐむ。
平和の像
 旧満州に開拓団として渡った人など民間人は、敗戦で大陸に取り残された。
 ソ連軍進駐、地元住民の襲撃の中での苦難の逃避行。
 着の身着のままで出発港・ころ島にたどり着き、ようやく祖国の土を踏んだ人々は
「あわれな姿やった。女の人は(ソ連兵などの暴行を防ぐため男のように)髪を切っとらした」

 国は国内での性病蔓延防止などの目的で、非公式に堕胎や治療を行っていた。
 その一方で、当時の援護局には、暴行にあって心に痛手を負った女性らのために、相談に当たった民間の女性グループがあった。
 しかし、終戦から半世紀以上を経たいま、当時のメンバーは既に鬼籍に入っている。
 そのメンバーの一人の日誌が匿名を条件に見せてもらえた。それには戦争で踏みにじられた女性らの叫びが綴られていた。

 《逃避行の途中、子ども3人を病気で失った母親は、死の床にあった長男(13)に頼まれた。
 「僕は死んでも魂は死なんから、お母さんとともに、どんなことがあっても骨は日本に連れて帰って」。
 だが、盗賊に襲われて遺骨を川に落としてしまう。「私一人どうして帰れましょう。あのとき死ぬ決心をして親子4人でいたなら…」と苦悩する。
 また別の母は、引き揚げを待ちながら開拓団で集団生活をしていた際、「娘を中央軍に提出する強引な要求に、ついに拒みきれず」3人の娘を現地の料理店に通わせた。
 ようやく引き揚げが決まり喜んだが、娘らは「この体になって何で帰られよう」「お母さんに会うのが一番つらい」と大陸に残った。》

ハウステンボス
 佐世保引き揚げ援護局の跡はいま、大型リゾート施設「ハウステンボス」になっている。そのハウステンボスが今年、近くの小高い丘に慰霊碑を建てた。
 「今の私たちがあるのは、過去の方々の苦労があったればこそ。敬意を払いたい」。華やかに人々が行き交う街から離れ、ひっそりたたずむ慰霊碑に社員らが花を手向ける。──

 西日本新聞に掲載されたのは おおよそこのような内容でした。
 あの敗戦の荒廃から間もなく60年。目覚しい復興を遂げた日本はいま、どこに行こうとしているのでしょうか。
 最近 何か歯車が狂ってきている、また危険な道に踏み込もうとしているのではないか、そう感じるのは私だけでしょうか。
 あの悲惨な体験を風化させてはならない。忘れさせてはいけない。それは、あの貴重な体験をした者の使命だと思います。

 

2004,11,24  

  

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