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西海橋
 急潮をまたぐ虹の架け橋:満潮時の高さ34m、橋全長316m。
 日本三大急潮(最大潮流9ノット)の一つと言われる針尾瀬戸に西海橋が架かったのは1955年であった。アーチ式の橋としては竣工時点で東洋一、世界では3位の橋であり、その景観はまさに「虹の架け橋」そのままの美しさである。
 近くには旧日本軍の「針尾の司令塔」が今でもそびえ立っている。
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引揚記念平和公園
 「かえり船」:皆さんは田端義夫のこのヒット曲をご存知だろうか?
 「波の背の背にゆられてゆれて 月の潮路の帰り船 霞む故国よ小島の沖じゃ夢もわびしくよみがえる」 「捨てた未練が未練となって 今も昔の切なさよ 瞼合わせりゃ瞼ににじむ 霧の波止場の銅鑼の音」
 公園内にはこの曲が終日流れています。
 太平洋戦争が終結した昭和20年から昭和25年4月までに、中国大陸や南方諸島の海外から、一般邦人や軍人・軍属合わせて約140万人の多くの人々が、引揚げ船1216隻により、ここ「浦頭」の岸壁に引揚げの第一歩をしるした。
 人々は、長い船の旅で疲れた足を引きずりながら、約7kmの道のりを歩き、検疫所・引揚げ援護局を経て、今のハウステンボスの近くの、南風崎(はえのさき)駅から、それぞれの故郷に向けて出発した。
 引揚げ者の心からは、恐らく永久に消える事はないだろう、ここ「浦頭」の名は、「岸壁の母」で知られる「舞鶴」の56万人に対して、約3倍に近い人々の引揚げ地となった。
 この公園は"二度とあの悲惨な戦争を繰り返さないように"との悲願を込めて創られた。
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海軍墓地
 1892年(明治25年)に開設された、日本唯一の海軍共同墓地。1945年の太平洋戦争終結までに亡くなった海軍の軍人・軍属約17万余柱の御霊が奉られている。
 一隻の軍艦とともに、祖国のために尊い犠牲となった方々の軍艦名が刻まれた「合葬碑・記念碑」の前に立つと、石碑に刻まれた「妻への手紙」が涙をさそう。

 ”妻 静子に”
「好伴侶を得た己は実に幸福だった。夫としての愛情は何人にも負けないで来たが、将来を唯一の希望に心と心で結ばれた結婚生活を、いかに有り難く感謝している事か。何かにつけてよく仕えてくれたお前に感謝の心で一杯だ。有難う。
 祖国の礎となるに及びて、お前に若し一子ありとせば、我が小笠原家の後継者としてくれる様に、即ち男子なれば軍人として、女子なればよき配偶者を見つけて全からしむべし。
 家紋の名誉を担う己なれば、妻はその分身なり。決して見苦しく人様に笑はれる事のなき様。子供の授からざりし場合は「己の真の心のままに行動すべし」。
 斯く書けばお前には充分におわかりの事と思ふ。この己の真の愛情だと聞いて貰い度い。では之にて」
 (海軍機関兵曹長 小笠原 年夫:昭和17年5月25日「伊164潜水艦」にて戦死。33歳)。
 幸せだった結婚生活を振り返り、妻への愛と感謝の気持ちを伝え、自分の行く末を覚悟しながらも、もしかして妻のお腹の中には自分の子がやどっている のではないか、その子供への思いを妻へ託し、そして海中に消えて行った短い人生。その胸中はいかばかりだったろうか。

”轟く砲(つつ)音 飛び来る弾丸 荒波洗うデッキの上に 闇を貫く中佐の叫び「杉野は何処 杉野は居ずや」 船内隈なく尋ぬる事三度 呼べど答えず 捜せど見えず 船は次第に波間に沈み 敵弾いよいよ辺りに繁し”
(これは日露戦争で旅順港封鎖のため出撃、戦死した広瀬中佐の杉野兵曹長を探す叫びだろう)

 また近くには、「美しき天然」の作曲者 田中穂積 の墓もある。

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軍港佐世保
 1884年(明治17年)佐世保の人口は3800人であったが、1886年に海軍鎮守府が設置されてからは年毎に急増し、1894年には1万7000人、1899年には4万人となった。
 そして、1902年(明治35年)人口約5万の佐世保は、村から一足飛びに市となった。
 終戦後間もなく、沈没を免れた何隻もの軍艦が、ここ佐世保港内に集結した。
  写真は霧に煙る現在の佐世保港
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九十九島
 佐世保港外から平戸瀬戸に至る25kmの海上に、点々と浮ぶ208からなる多島群で、佐々浦を境に南九十九島と北九十九島に分けられる。
 南九十九島は小さい島々から出来ていて、島の数が多く、海水の美しい点では他に類を見ない。これを鵜戸越・弓張岳・烏帽子岳・展海峰から見ると、まさに一幅の絵のように美しい。

 「美しき天然」
作曲:田中穂積(佐世保海兵団軍楽長)
”空にさえずる鳥の声 嶺より落つる滝の音 大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音” ”聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾き給う  神の御手(おんて)の尊しや”

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2001.07.17 .

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