函館から

函館明治館
 暴風雪警報が出て、全国的な大荒れ予報もなんのその、千歳に降り立った時には薄日もさして、雪も大したこともなかったので「な〜んだ」と思いながらバスに揺られて室蘭まで来たら、そこから長万部までの太平洋岸は台風並の大荒れ、雪も降り出し、突風に煽られバスはフラフラ、ハンドルを取られてどこかに突っ込むのではないかとハラハラさせられた。
 雪もだんだん深くなるし、さすが北海道!!。
 それでも、♪はるばる来たぜ函館へ〜♪と、夕方には函館に到着、まずは明治館へ。

明治館の内部
 明治館は、明治44年に北海道の玄関口としての函館に開局した北海道第一号の郵便局で、戦争や大火にも耐えぬき、今でも当時のままの姿で残されています。
 昭和30年代まで現役郵便局として活躍していましたが、郵便局移転後は、マーケットとして生まれ変わり、赤レンガが特徴の歴史的建造物として、歴史の街・函館の観光客誘致に一役かっています。
 現在は、ガラス工房や世界のオルゴールなど、数々の店が居並ぶショッピングエリアとして人気を呼んでいます。

北島三郎記念館
 函館では、函館山からの100万ドルの夜景が有名ですが、そちらの方は前に来た時に見ていましたので、今回は北島三郎記念館の方に行ってみました。
 函館は北島三郎の出身地ではありませんが、彼が通った高校があるところで、少年時代から多くの関わりがあるところから、記念館の設置場所に選ばれたそうです。
 少年時代は家が貧しくて、中学を出たらすぐ働く予定でしたが、頭がいいので先生に勧められて高校に進学したとか。昔はそういう人が結構多くいて、その後大成した人も多いんですよね。

北島三郎記念館
 高校生の“サブちゃん”が、片道1時間半かけて通った、だるまストーブの通学列車と、その車窓に映る雪景色。
 「歌手になりたい」という夢を捨てきれず、雪の舞うなか、ボストンバック一つで青函連絡船に乗ったあの日。船出を告げるドラの音とともに、夕日にかすむ故郷の景色。
 そして、昭和30年代、“流しの大ちゃん”が流して回った渋谷の飲食街。
サブちゃんの舞台衣装
 わずか3畳一間の下宿。そこにカレーライスを差し入れしてくれた下宿屋の娘さん(今の北島夫人)とのなれそめ。などなどがドラマチックに再現されています。この流しの下積み時代が“北島演歌”の大きな肥しとなったのでした。
 記念館の最大のみどころ、シアターゾーンでは、臨場感あふれる大音響とともに宝船に乗ったサブちゃんが、不滅の名曲「まつり」を歌います。残念ながらそこは撮影禁止でした。
 そして、今回の旅行の最大のお土産は、サブちゃんとの夢のデュエット。「北の漁場」をデュエットして、その場面を記念のビデオに納めてもらったのですが、後日、このビデオを見た娘が、繰返し見ては笑い転げていました。
 近くの市場で「イクラ定食」を食べてホテルに帰りましたが、カニも入っていて美味しかった〜。

夜明けの函館山
 2日目の朝は6時に起きて函館朝市に出かけました。ここには約400軒が出店しているそうです。
 まだ夜は明けきっていませんでしたが、あちこちから威勢のいい声が聞こえてきます「カニ食ってけなさい。安いベサ!」東北に近いので少しなまっていて、聞き取り難いところがありますが、独特の函館弁だそうです。
函館朝市
 海の幸のイキのよさは、唐津や呼子でもおなじみですが、お目当てはカニ。それもタラバガニです。
 ところが、このタラバガニは年々水揚げも輸入物も減っているそうで、今年は特に少ないとか…。近い将来になくなる運命だそうです。食べるなら今のうちですが、当然のことながらこれが高い。
 朝市での朝食は「カニ丼」と「ホタテの味噌汁」。 カニ丼はもちろんだけど、ホタテの味噌汁もうまかったなァ。

トラピスチヌ修道院
 この日は、まず「トラピスチヌ修道院」観光からスタート。明治31年に創建された日本最初の 女子修道院で、現在も修道女たちが戒律に忠実に敬虔な毎日を送っているため、外部とは遮断され、内部の見学は出来ません。
 前庭までしか入れませんでしたが、洞窟に設置されたルルドの聖母像や、修道院の歴史を紹介する資料室は見学できました。
トラピスチヌ修道院
 修道女達は、すべて自給自足、外部との接触はすべてシャットアウトされ、外出が許されるのは、肉 親が亡くなった時ぐらいだそうです。
 暖房もなく、寝る時は湯たんぽぐらいしかないそうで、もちろん娯楽もありません。会話も少なく身振り手振りが多いそうです。
 そんな厳しい生活でも、逃げ出す人はいないそうで、周囲にめぐらされた高い塀は、外部からの侵入者を防ぐためのもので、彼女たちは少しでも神に近づくために、厳しい修行に耐えるのだそうです。

氷が張りつめた五稜郭のお堀
 次の観光地は「特別史跡 五稜郭跡」 五角形の星の形をして堀をめぐらした平城跡で、日本にはないヨーロッパ式の城跡ですが、五角形をしているので、どこから攻め込まれても死角がないように設計されているのが特徴です。
 安政4(1857)年に着工され、慶応2(1866)年まで9年間かけて築造されました。初めは開港による外国からの侵略を防ぐために築造されましたが、だんだん外国の脅威が薄れてきたので、大砲などの設置もしてなかったようです。
五稜郭公園
 後の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の最後の決戦地が函館ですが、明治元(1868)年、大政奉還に不満を持った旧幕臣らがここを占拠し、翌明治2年に幕府軍が降伏して政府軍に明け渡されました。市立函館博物館五稜郭分館で、そのへんの詳しい資料を見ることが出来ます。
 郭内には奉行所もあったそうですが、その後取り壊され、現存しているのは兵糧庫と井戸のみです。
 今は「五稜郭公園」として整備され、公園の入口にはタワーがあり、地上約50mから星型の史跡五稜郭を眺めることが出来ます。    

 

2003.1.28  

  

  

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