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戦争と父

 昭和19年7月29日、ビルマ(現ミャンマー)のミッチーナ県ニャンゴン方面にて戦死。死因は左大腿部貫通銃創。という戦死公報と共に骨壺が送られてきたのは、昭和21年になってからだった。それも、国当局から自主的に送られて来たものではなく、父の叔父に頼んで八方手を尽くしてもらって、催促に催促を重ねた挙句にやっと来たという。
 あの混乱の時期なので、この公報が本当なのか、定かではないが、本当だとすれば、太ももを銃弾が貫通しただけだから、勝ち戦であれば助かっただろう。しかしこの頃のビルマ戦線は敗走に敗走を重ねていた時期だから、ほったらかされ、出血多量で死んだのではないか?。
 考えたくないが、足手まといとして自決させられたり、味方に銃殺された可能性だってなくはないだろう。
 私の家から3km離れた所に唐房という町がある。ここに父と同じ分隊にいたという人が帰って来たと知って、母は何度か父の戦死の様子を聞こうと、その人を訪ねたそうだが、あまり語ってもらえなかったという。後で分かった事だが、前記の叔父が前に話を聞いて「可愛そうだから家族には話さないでほしい」と口止めしたらしい。ということは、真相はかなりひどいものではなかったろうか?。知りたいけど今となってはどうしょうもない。

 父は、三代養子が続いた後にやっと生まれた1人息子だった。幼い頃に母親をなくして、継母に育てられている。21歳で結婚して、翌年には姉が生まれ、その4年後に2番目の姉が生まれたが、この姉は身体が弱くて1歳の誕生日を過ぎた頃亡くなった。私はその1年後に生まれたが、父にとっては待ちに待った男の子だったので、その喜び方は大変なものだったという。父にとっても母にとっても、この頃が一番幸せな時期ではなかったろうか。
 私が生まれたのは、中国方面では戦争が泥沼化し、アメリカやヨーロッパ各国ともギクシャクし出して、一触即発の様相を呈してきた、昭和16年4月のことだった。この年の12月、日本軍の真珠湾奇襲攻撃により、アメリカと開戦、事態は第二次世界大戦へと発展した。
 出征兵士を送る時は、手に手に日の丸の小旗を振りながら、名誉の出征バンザイ!バンザイ!と叫びながら、村中(集落)で送ったそうだ。内心は万歳どころではなかったが、無理やりそうさせられたのだった。特に年頃の男のいる家庭では、いつ赤紙(召集令状)が来るか、戦々恐々としていたろう。本人や家族にとっては、まさに不幸の手紙以外の何物でもなかったのだから。
 昭和18年1月、ついに我家にもその不幸の手紙がやって来た。が、父はその前に体調をくずし、療養生活を続けていた。その病気も治り、やっと体力を回復しつつある時だったので、まさか検査に合格するとは思っていなかったようだ。だが、久留米に出かけた父はそのまま帰って来なかった。もうこの頃は病み上がりだろうが何だろうが、男だったら誰でも良かったのだろう。
 病気が治って体力回復中の父は、ヨチヨチ歩きの私の手を引いて、よく隣近所に遊びに行っていたという。また片言でしゃべり出した私の事が、可愛くて可愛くて仕方がないようで「今日は何と言った」「今日はこんな事をしゃべった」と言っては目を細めていたと、隣のおばあちゃんに何度か聞かされた事がある。
 父は家ではあまりしゃべらなかったらしいが、外面はよかったらしい。これは祖父もそうだったし、私もそうだから、どうも我家の男の伝統らしい。そんな父に「後姿までそっくりになって来た」とは、私が成人した頃近所の人達からよく言われた。
 結局父は久留米の菊部隊に入隊した。右の写真はその時に撮ったものである。1週間後に面会に行って、さらに1週間後に行った時はもう戦地に出発した後だったというから、久留米には10日もいただろうか。おそらく訓練なんてする暇はなかったろう。もう戦局はそれほど切羽詰っていたのだ。

 ビルマからの父の手紙は何通か来た。私も読んだことはあったが、内容は覚えていない。ただ難しい漢字が並んでいて、自分の理想の農業が出来る日を夢見て頑張っているというような事が書いてあったと思う。この頃はまだ祖父が我家の実権を握っていたから、父の思うような農業はさせてもらえなかったのだろう。
 また別の手紙には兵舎の近くを描いた絵が書かれたのもあったという。そしてどの手紙にも最後には返事がほしいと書かれていたというから、こっちから出した手紙や写真は、殆ど届かなかったらしい。それに父から来た手紙にはところどころ黒く塗りつぶされた所があったそうだから、全部チェックされていたのだ。塗りつぶされたところを読み取ろうと努力したが判らなかったと姉が言っていた。こっちからの手紙はチェックされて本人には渡されなかったのかも知れない。そんな父の手紙がどこかに仕舞ってあるはずだと、随分捜したがどうしても見つからなかった。
 出征する時の父の言葉を思い出してもらおうと、母や姉に尋ねたが思い出せないと言う。特に母には後に残していく子供の事や、両親の事を頼んで行ったと思うのだが、今となっては思い出せないそうだ。せめて手紙でも出てくれば父の思いが分かったろうに、それもかなわない。
 ただ、私が何か悪い事をすると、母は父の墓の前に連れて行って、「父ちゃんからくれぐれも頼まれていたのに、申し訳ない」と言っては私を叱った。
 昭和19年7月といえば、もしかしたら父はインパール作戦に駆り出されたのかも知れない。色々な本に書いてあるが、本当に読めば読むほど、腹の立つ作戦だ。当時の日本軍がいかに統制のとれていない、いいかげんなものだったかが良く解る。
 父の死が即死でなく本当に出血多量だったのなら、私達子供の事や、母のこと、そして両親のこと、いろいろ考える時間があったろう。思えば、あんなビルマの山の中で死ぬのが残念でたまらなかったろう。心ならずも戦地に引っ張り出されただけに、無念だったに違いない。私もあの戦争がとても憎い…。

   

史上最も愚かなインパール作戦
 日本のビルマ方面軍と、独立を目指すインド国民軍とによるインパール作戦は、ビルマ国境に近いインドのインパール攻略を目的とし、同方面からの英・印軍の反攻を封ずるとともに、インド領内に英国からの独立を目指す国民軍の拠点を作ろうとするものだった。日本軍はインド国民軍の独立運動を利用し、あわよくばインドまで進攻し、中国軍と英・印軍の輸送路を遮断しょうと思っていた。
 父はこのインパール作戦に駆り出されたものと思う。インパールの重要性は十分に認識されていたが、進攻には2000m級の峻険な山脈を越えなければならない。制空権がなく機動力の乏しい日本軍には、物資の補給も困難だとして、異論を唱える者も少なくなかった。だが結局現地の猪突猛進型の一司令官によって、大本営まで動かされてしまったのである。
 昭和19年3月に始まったこの作戦は、1ヶ月もあれば攻略できるとの考えであったが、英・印軍の空挺部隊に補給路を分断され、食糧・弾薬が欠乏し、兵員の損耗も激しく、5月の雨期に入って日本軍の困窮はその極みに達した。
 この作戦では、約十万人が動員されたと言われている。飢えと、英・印軍の戦車、航空機、重火器による攻撃を受け、ついに7月にはその作戦を中止せざるを得なくなった。
 結局、英・印軍と中国軍に挟み撃ちにされ、死の撤退が続いたが、戦闘もさることながら、物資も食糧もなく、栄養失調、マラリア、赤痢などで、撤退途中で倒れる者が続出した。写真は死の撤退行軍の様子を撮ったものだが、その状況は凄惨を極めたという。
 この作戦で、戦・病死した兵士の数は5〜6万人ともいわれ、その死亡率の高さは驚異的だったし、残った兵士も栄養失調や病気で、殆ど戦闘能力を失っていた。そしてここでもまた、病気や怪我をした者の殆どは、山脈で自決または殺され、死体は谷底へと落されたのだった。イギリス軍に殺された兵士よりも、餓死したり、自決させられたり、味方に殺されたりした者の方が多かったという。
 父がこの作戦で死んだかどうかはハッキリしない。仮にこの作戦に参加していなかったとしても、ビルマで戦死した事は確かだし、19年7月戦死という時期を考えれば、似たようなものではなかったかと思う。  

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2001.8.6 .

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