.

 

 

 

 

.

.
 

 

.
戦争と私

ものごごろついた時
 その日は、ジリジリと太陽が照りつける暑い日だった。「あれは日本の飛行機ではない。敵機だ!! 一機・ニ機」近所のおじさんが数を数え始めた時だった。バババ−ンと機銃掃射が始まった。
 山の上から急降下しながらの機銃掃射は、まるで自分が狙われているようだったので、私は家の中に走り込んだ。後で分かった事だが、アメリカの飛行機が唐津湾を航行中のジャンク船を攻撃したのだった。
 けたたましく鳴るサイレンと飛行機の降下音、そして機銃の音が、その後数年間私の耳から離れなかった。1945年(昭和20年)8月、幼かった私の記憶は、この日から始まり、強烈な恐怖の体験として私の脳裏に焼きついた。

 当時、父は出征中(戦死公報はまだ届いていなかった)、祖父と母は田の草取りに行っていて、祖母と姉と3人で留守番をしている時だった。家には貴重な労働力として牛を飼っていたので、「どうせ死ぬなら牛と一緒に死のう」と、祖母に言われるままに牛舎の前に行って小さな手を合わせ「南妙法蓮華経」を唱え続けた。
 田の草取りをしていた祖父と母も、やっぱり自分達が狙われているようで、泥田んぼの中に腹ばいになって隠れていたが、生きた心地はしなかったと言う。

 日本軍の応戦はなかったように思う。もうこの時期は日本軍の制空権はないに等しく、アメリカ軍機はゆうゆうとやって来ていたのだろう。攻撃時間はあまり長くはなかったと記憶しているが、攻撃目標にされた船には弾薬を積んでいたとか。
 そのジャンク船がどうなったかは私の記憶にはない。近くで泳いでいたという人によれば、乗組員が海に飛び込むのが見えたそうだし、結局その船は沈んだと言う。
 それは太平洋戦争の終結する数日前の出来事だった。当時の私は4歳、戦争体験はこれだけだが、その後、飛行機とサイレンが怖くて、飛行機が来たらいつも家の中に逃げ帰っていた。

 私は父親の愛情を知らずに育った。でも、母や姉や祖父・祖母の愛に包まれて、なに不自由なく育った。けっして裕福ではなかったが、農家だったためひもじい思いをした経験もない。特に祖父がいたことが、父親代わりとして大きかったと思う。
 子供の頃は、特に父親がいないことを意識した事はなかった。父の面影も知らない私は夢も見なかった。でも大人になってから、時々思う。もし父が帰って来ていたら、一緒にビルマ巡りがしてみたかった。車に乗せて色んなところに連れて行ってやれるのに。親孝行の真似事みたいなことも出来たろうに…と。
 そんな私が3人の子の父親になって、父がどんな思いで死んで行ったのか、残した家族への思いはどんなものだったのか、恐らく残念で無念で、死んでも死にきれない思いがあったろう。考えれば考えるほど、あの愚かな戦争が恨めしい。
 父は無口だったそうだ。いくら無口でも戦地に赴くには、妻への、子供達への、そして両親への、それなりの思いは告げて行ったと思うのだが、母も姉もあまり覚えていないという。心の中のどこかに、あのいまわしい体験を忘れたい思いがあったのかも知れない。
 私は3人の子供達に、おじいちゃんの味を味わせる事は出来なかった。父のぬくもりを知らずに育った私は、子供達に果たして父親としての最高の愛を与えて来たのだろうか。あの時はああした方が良かったのではないか。こうした方が良かったのではあるまいか。子供達がそれぞれ成人してしまった今になって、よく考える。
   

.
2001.8.6 .

.

 

 

 

 

inserted by FC2 system