「神のエネルギーと人の教え」

 もともと日本は「神の国」とされていて、昔の人々は神を信じ敬い奉っていた。戦争中でも「神風が吹いて最後には日本が勝つ」と本気で信じている人も少なくなかった。ところが日本は無残にも敗れた。神風は吹かなかったのだ。その後の急速な科学の発達で科学万能の時代となり、神を信ずる人はほんの一握りとなった。
 神の存在を信じること自体は間違いではない、しかし本当の霊界と本当の神の存在を知れば、神風が吹くなどとばかげた信心にはならなかったろうに、残念なことではある。
 神は、弱い者を助けてやろうとか、こちらが正しいから勝たしてやろうとか、悪いやつだからやっつけてやろうとか、そんな次元の低いことで人間界に関与されない。
 あなたは、神社にお参りする時になんと言って拝んでいるのだろうか?おそらく「神様、家族が健康で安全な生活が出来るようにお守り下さい」とか「病気を治してください」とか「商売が繁盛しますように」と言って拝んではいないだろうか。しかも、内心では神の存在を信じてはいないくせに。
 どだいこんな事で神のご加護を頂こうなんて虫がよ過ぎる。これでは神様に「ああしてくれ、こうしてくれ」と命令しているようなものではないか。もっとも日本の神社仏閣の殆どに神は存在していないので、どうでもいいことではあるが…。
 また「私は何の悪いこともしていない。いやむしろ人のため世のため、出来る限りのことはやったつもりだ。それなのになぜ私はこんな大病で苦しまなければならないのか。世の中には神も仏もないのか。一方では悪い奴らがのさばっている、不公平ではないか。もう神も仏も信じない!!」そう思っている人も多いのではなかろうか。
 神は間違いなく存在される。神も霊(神霊)なら幽霊も地獄霊もまた霊(悪霊)である。従って死んだら必ず霊になる人間もまた、神にもなれれば地獄霊にもなれる。どちらを選ぶかは人間界にある時の想いの持ち方次第で決まる。
 神の世界は極めてシビアで、困っている人も、病気で苦しんでいる人も、その人が人間界でどんなにいい人であっても、神様自ら助けようとはされない。その人が神様の存在を信じ、ただ一心に神の力(エネルギー)を求め、頂いたエネルギーをもって、自分で苦しみを解決し、病気を治そうと最大の努力する者にしか、力を与えられない。いや、与えられるのではなく、自分で力を頂いて自分で治して自分で這い上がる、と言ったほうが正しいだろう。
 いくら神社の前で柏手を打って、「病気を治してください!」と拝んだところで治るはずはない。また、さい銭の多さ少なさも全然関係ない。
 ところで、日本の神社仏閣には神も何もいないところが殆どだと書いたが、神社も仏閣も形式化され、文化遺産のようになってしまったために、そこには神の存在はない。でも、いなくて幸いで、もしその神社が悪霊の住家にでもなっていようものなら大変なことになる。下手に参って悪霊と波長が合えばたちまちとりつかれて、地獄の苦しみを味わうばかりか、命まで奪われることになりかねないからだ。
 幸いにもと言うべきか、残念ながらと言うべきか、観光地の大きな神社や仏閣には何も存在しないところが殆どだが、恐いのは田舎の人里離れた小さな神社やほこらで、そこは悪霊の住家になっている所も多い。昔の戦場跡だったり、処刑場だったり、不幸な死をとげた無縁仏を奉ってあったりするところには、殆ど悪霊が住んでいる。人が、地獄に落ちて苦しんでいる霊を救済しようと奉ったほこらが、皮肉な事に悪霊の住家と化してしまったのだ。何か妖気漂う不気味なほこらには、近づかないほうが無難だろう。
 ここで言う悪霊とは、何も悪いことをする霊とか、人間に危害を加える霊という意味ではない。霊界でさまよっている霊(浮遊霊)や霊界にありながら成仏できずに、死んだ所に住み着いた霊(地縛霊)また、地獄に落ちて苦しんでいる霊(地獄霊)をさす。これらの霊は苦しさから逃れたい一心で、少しでも波長の合う人間が来たら、ワラをもつかむ気持で懸命にすがりつく。その人に恨みや因縁があろうがなかろうが…。その結果として、すがりつかれた人間も霊と同じ苦しみを味わうことになるのである。
 私は、付き合いや行きがかり上、どうしても神社やお寺に参拝しなければならない時には、真に波長を合わせないように、「こんにちは、いい天気ですね」と唱えながら参ることにしている。触らぬ神にたたりなしだから。
 人々が神を信じなくなった原因には、宗教関係者の堕落がある。今日本には宗教法人として認められている団体が18万1000もあるそうだ。神を信じない国にしては、多い方ではなかろうか。いや、信じないからこそ雑多になったのかもしれない。
 その中にはいかがわしい集団や、税金を払わなくてもいいところに目をつけた集金マシーンとしての団体もあろう。中には多額の寄付金を強要したり、財産を持つと神のたたりがあるから、財産は全部寄付しなさいと教えたり、他の宗教に入ったら罰があたると脅したり、いやはやとても宗教と言えたものではないものも混じっている。こんなものにだまされて、抜き差しならずにいる人も結構多いというから驚きである。
 奉るのを止めたら罰があたるとか、他の宗教には絶対に入るなとか、出家や多額の寄付を強要するようなものは絶対に宗教ではない。神の衣を借りた、物欲にとりつかれた亡者が言っているのであり、決して神のお告げなどではないから、理性で判断してほしい。
 もともと宗教とは神の教えではない。人間が人としての道を説いたものが多い。釈迦にしてもキリストにしても もともとは人間で、その教えがあまりにも清く尊く偉大であったから、後々の人が神とあがめ奉った人である。従ってその教えは神の教えとは違う。
 最近宗教紛争が各地で頻発している。先日世界の人々を震撼させた、ニューヨークやワシントンのテロ事件も元をたどれば宗教紛争・民族紛争である。人間は救えない生き物かもしれない。せっかく宗教と言う立派な人類のよりどころを持っていながら、愚かにもその縄張り争いを繰り広げ、自分と違う宗教を信じる者を敵視する。
 世界の三大宗教といわれる、仏教・キリスト教・イスラム教にしても、違う宗教の者は認めるなとはどこにも書いてない。ましてや排除しろ!とか、争え!なんて教えがあろうはずがない。
 例えば、釈迦には「人に対する慈悲の心を持ちなさい」という教えがあり、キリストには「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」という言葉があり、アラーの教えには「人は仕事をしなさい、人のために尽くしなさい」という教えがある。自分の思想と違う人は従わせよとか、従わない人は殺せ!とか言う言葉はどこを捜してもない。なのに紛争や戦争が絶えない。人間とは実に愚かで罪深い生き物である。
 アメリカでは、テロに対する報復攻撃の準備が着々と進んでいる。そして世界の多くの国がこれを支持している。ブッシュ大統領はこの戦争は正義のための戦争であり、神も容認されると演説している。
 とんでもない、人間界のおどろおどろした紛争に神様が関与されることは絶対にない。聖戦などあり得ないのだ。
 イスラム教徒は勇敢に戦って戦死した者は神になると信じて戦っているという。従って死を恐れず自爆テロもやってのける。今回のテロもそうだった。まさか、アラーの教えの中にそんなものがあるとは思えないが、死ぬ時の心の持ち方が霊界での居場所を決定する事を考えれば、あながち間違いとは言えず、純粋で一途な人の心理を巧みに利用した導き方だとは言えよう。
 戦前は日本にも似たような思想があった。戦死した者は靖国神社に奉られ神となる…というのがそれだ。これは戦死者を美化することで、戦争を肯定し戦争を煽ることにつながる極めて危険な思想だ。だから政府要人の靖国参拝には異論が多い。
 それにしても宗教が紛争に利用され、人々が間違った方向に導かれるのはなぜだろうか?。 例えば仏教を例にとっても、釈迦の教えを説き、亡くなった人の魂を浄化救済し、霊界に送り出す(成仏させる)という、本来の僧侶としての、識見と能力を有するお坊さんがあまりにも少ないからではなかろうか。あなたは、お坊さんが詠んでくれる経を聞いて、死者の霊が本当に成仏しているとお思いだろうか?。信じてはいないけれども、精神的な安心を得るために、あるいは世間体を気にして、人並みの形式としての儀式に頼っているだけではなかろうか。
 人間界では立派で大変徳の高かったお坊さんでも、霊界に入って迷い、地獄霊となって苦しんでいる例もあるという。また僧席にある人からの霊界に関する問い合わせや質問も多いというから、何おか言わんや。仏も神も信じられないのも無理はない。
 しかし、いくら立派な人でも、いくら世のため人のために尽くした人でも、霊界を知らず、神の存在を否定する人は地獄への道しかないのは事実である。      

  

2001.09.21   

  

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