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霊界を信じる人は肩身が狭い では、人間死んだらどうなるのでしょうか。何もなくなるのでしょうか。 霊界を信じ、幽霊や神霊を信じていても、変質者、ばか、低脳、さらには気違い扱いされるにいたっては、人には言えず、肩身の狭い思いをしている人もいるでしょう。 しかし、霊界は間違いなく存在します。幽霊も神様も、天国も地獄も厳然と存在します。いつかは科学の力でそれが証明される日が来るでしょう。 神霊治療はさまよえる霊の救済 私たち人間は肉体と頭脳と心を持っています。そして、心の中ではその人の霊体(魂)がはぐくまれているのです。 死によって肉体を離れた霊体はまず幽界へたどり着きます。そこで少しずつ修行を積んで、霊界、仏界、神界、さらには聖天界へと向上していく霊もあります。そして、そのような霊は決して現界(人間界)にかかわってくることはないのです。 ところが、<現界で死んでも死に切れない>というような、強い思いを残していたような霊は、いつまで経っても霊界をさまよい続け、おりあらば現界に立ち返ろうとします。 内乱や戦争、天災や人災、あるいは不慮の事故死や殺人など、悲惨な死に方をした人の霊は、その死の瞬間の無念の想い、苦しみの想いが強烈であるため、下界(地獄界)へ落ちることがあります。そうした霊が現界人に救いを求めてとりすがり、強烈な憑依(とり憑き)現象を起こすのです。 このことは以前にも書きましたが、人間にとり憑く霊は、上界に行くことができずに、下界へ下界へと落ちて苦しみもがいている霊なのです。人がこうした霊にとり憑かれた状態が霊障です。 こうした霊障を解くために昔から言い伝えられ、今もなお巷で行われている供養の儀式や方法は色々あります。 お経を毎日1時間唱えることを2年3年と続けなさいとか、これこれのお供え物をしなさいとか、饅頭を仏壇にお供えして、夜中の人が見ていないときに川に流しなさいなどというのがそれです。 しかし、こうした方法でとり憑いた霊が浄化救済されて、その人の痛みや苦しみがなくなったという話はあまり聞きません。 治ったように見えてもまたすぐにとり憑かれたり、除霊に非常に長い日時かかったり、死ぬほどの修行をしたりしているようです。 霊の救済、浄化、供養は徐々にではなく、瞬時になされるものです。その結果、とり憑かれた人の痛み苦しみは瞬時に解消されるものなのです。治療に当たっては患者の身体に触れられることすらありません。それが日神会で日々行われている「神霊治療の実際」なのです。 なぜ現代科学では霊の存在がつかめないのか 長年原因不明の病気で苦しんでいる人がいます。当人がどんなに体調不良、痛み苦しみを訴えても、「自律神経失調症」あるいは「精神的なもの」「なんでもない」「原因不明」等々で済まされてしまう病気があります。これらの多くは霊の存在が関与しているものと思われます。 ではなぜ、高度に発達した超医療機器をもってしても霊の存在がつかめないのでしょうか。それは霊体があまりにも小さい小さい粒子で構成されているからです。 古来、人々は目に見えない物の存在を確信し、それをつきとめようと顕微鏡や望遠鏡を発明してきました。その結果、気が遠くなるような遠くの天体や、非常に小さい病原菌なども見ることができるようになりました。 霊界の存在を信じない人の多くは、見えないものや解明できない存在は否定するところから出発している人ではないでしょうか。いわゆる唯物論者です。 しかし、かっては見えないもの、存在しないと思われたものが次々に発見され、解明されてきた事実を考えれば、今は見えなくても、いつかはその存在がつきとめられるものもまた、数多く存在するのではないでしょうか。大霊界も、霊や神の存在も、そのようなものだと思います。 物質は、分子、元素、原子に分けられ、さらに原子核、電子、陽子、光子、など現代科学がつきとめた物質世界で最も小さい超微粒子で構成されています。 そして、これらの極微の粒子は「素粒子」と名づけられ、物質を作っている究極の単位物質とされています。 しかし、素粒子の先にもっともっと小さな存在があるとしても少しも不思議ではありません。 素粒子の更なる微粒子が「幽子」その先の微粒子が「霊子」そのまた先の微粒子が「素子」(いずれも仮称)です。大霊界はこれらの極超微粒子で構成されています。 これらの極超微粒子は、当然水も木も壁も鉄も、山も川も海や大地も軽々と通過します。幽霊や神々や超神霊はそのような存在です。そして動物の中でも、私たち人間にだけしか与えられていない「心・魂」もそのような存在なのです。
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