人生のフィナーレは安楽死

ポックリ寺
 お年寄りに人気のあるのが「ポックリ寺」だそうですが、その寺にお参りすると、苦しむことなくポックリとあの世へ行けるのだそうです。ことの真偽はともかくとして、お年寄の安楽死への願いがひしひしと感じられることではあります。
 死に際しての苦しみに対する恐怖もさることながら、病みついた自分がどれほど子供や孫や周囲の人達に迷惑をかけるのかと思うと、そちらの方がさらに耐え難いことだからだろうと思います。だから、病みつく前に、何の苦もなくポックリと死にたい、というわけです。
 人生の最後のときには、見苦しくないように、やすらかな旅立ちを迎えたい……これは、老齢者のほとんどが、心の中に密かにもっている思いでもあります。

霊的に見た安楽死
 人間の死とは、幽体が肉体を脱ぎ捨てて霊界に旅立つことだとは、前にも述べましたが、幽体は霊体(魂)を包み込んでいますので、このとき霊体も一緒に離脱します(幽体離脱)。
 人が死ぬとき、この幽体と霊体とが、なんの支障もなくスムーズに離脱できれば、全然苦しむことなく霊界に旅立つことができます。これが安楽死です。
 ところが、この幽体と霊体とがスムーズに肉体から離れず、それでも無理に離脱しようとする場合には、その人の肉体上に引裂かれるような痛みや苦しみが発生することになります。これが、いわゆる断末魔の苦しみです。

 では、なぜ幽体と霊体(魂)とが肉体からスムーズに離れないのでしょうか。
 問題は霊障、つまり霊の憑依(ひょうい)です。死の床に伏せっている人の肉体、幽体、霊体に霊がとりついて、クサビのようにささりこんでいるために、幽体と霊体とがスムーズに肉体から離脱できないのです。
 どんなに健康な人であっても、不意に霊の憑依を受ければ、心身が痛み苦しむものですが、もともと健康であれば、その肉体と精神のエネルギーでもって、霊をはね返すこともできます。
 しかし、病の床にあえいでいるような、肉体も精神も弱りきっている人には、霊をはね返そうとする力が非常に衰えています。このような状態は、霊にとってはまさに絶好のチャンスであり、人の死が近づくほどに、たくさんの霊が群がってくることも多いのです。

霊障のない幸せな霊界への旅立ち
 では、私達はいったいどのようにしたら死に際して幽体と霊体とがスムーズに離脱し、安らかな死を迎えることができるのでしょうか。
 人の死亡原因には色々な病名がつけられますが、実は霊の災いによる病死が非常に多いということです。癌などもそうです。先ほども述べましたが、身体の弱った人には色々な霊が群がってきます。その霊が多ければ多いほど、死に際に苦しむことになります。
 であれば、安楽死を可能にするためには、肉体と幽体や霊体にくいこんだ霊障を取り除いてやればよい、ということになります。
 では、どうして霊障を取り除くか、それはもう神霊治療の独壇場です。神霊治療については以前に詳しく述べていますので神霊治療の実際を参照してください。

 最近は、霊能者がテレビに出演して、霊視や除霊をしているシーンをよく見かけます。一つの霊を追い払うのに3日3晩かかって、しかも滝に打たれたり、冬の最中に水の行をしたり、竹刀でたたき出したり、それはもう目を覆いたくなるようなシーンです。
 ただでさえ弱っている患者にあんなことをしたら死んでしまいます。しかも、強制的な除霊ですから、追い出された霊がまた戻って来たり、他の人にとりついたりします。
 霊は除霊ではなく、浄霊でなければなりません。浄化して霊界の高いところに送ってやるのです。そうすれば、二度と人に災いをもたらすことなく、それどころか、霊自身が苦しみから救ってもらったお礼に、人類救済活動を始めることさえもあるのです。
 日神会の浄霊法は、患者の身体に触れることなく、即座に浄霊されます。苦しい行など一切不要です。もちろん自分でも出来ます(自己浄霊)し、家族がやってあげることもできます。極端な場合には、会長の著書を胸に抱いただけで、病気が治る人もいるくらいです。
 日頃から神の存在を信じ、本当の神と交流し、常に神のエネルギーを引く習慣のついている人は、もちろん霊障などありませんから、特別なことはしなくても、安楽死が約束されているということになります。

 
2003.1.8  
 

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