唐津の民話  

 
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「かんねばなし9」  
「勘右衛の家」

 今日は、勘右衛(かんね)の家の話ば、しゅうだい
 かんねは怠け者で貧乏でしたが、ひょうきん者でしたから、大方の人からは好かれておりました。それで、唐津では人気者として誰でも知っておりました。
 5月の初め、藤の花が咲くと唐津の周辺の村々では浜崎のお諏訪さま参りをして、毒蛇のマムシ除けのお砂を受けておりました。そしてその日は百姓たちの骨休めの楽しみでもあり、浜崎の料理屋で、サバの料理を食べて帰る習慣になっておりました。
 ある日のことです。かんねは徳須恵(とくすえ)に行き、川原橋という所まで帰って来ますと、腹が減ってひもじくなってきました。そこへ石志(いしし)の若者たちがお諏訪さま参りの帰りでしょう、一杯機嫌で楽しそうにしているのに出会いました。
 かんねは腹が減ってひもじくてたまらないので、石志の若者たちを見たら何となく羨ましくなって来ました。それで、あの連中を少し担いでやろうと思いました。
現在の北波多村徳須恵
「石志の若者じゃろう。お諏訪さま参りの帰りか。機嫌の良かなぁ」と、声をかけました。若者たちは相手がひやかしの上手なかんねですから用心しながら、
「何か用か、俺達はお前に話すことはなか」と、その場を逃げ出そうとしました。しかし、それで逃げられてはかんねの名がすたります。そこはあつかましさでは評判のかんねです。
「そう心配せんでもよか。お前たちはご馳走を食ってご機嫌じゃろうが、自分の家に帰ればおんボロの家に寝とるじゃろう。可哀そうなもんなぁ」と、ひやかしました。この言葉を聞いた若者たちは腹を立てて
「どんな家に住もうと俺たちの勝手たい。自慢そうに言うお前も、どうせ雨漏りの家に住んどろうが」と、反対に言い返しました。するとかんねはニヤリと笑い
「そう思うだろう。こういう格好をしとるから、そう思うのも無理はなか。しかし、お諏訪さまの社(やしろ)とまではいかんが、家は立派なもんたい。屋根は『ごまン瓦』。しかも、ところどころ『ひよン皮』でふいとる」と、言いました。その話を聞いた若者たちはビックリして
「そりゃ、本当かね?」と、聞き返します。
「そうだ、裏の畑には『18里ン山芋』もあるし、裏の田は『3どまき』ときと
現在の川原橋
る」と、自慢げに言います。 3斗蒔とは、種もみが3斗も要る広さをいうので、3町歩(3ヘクタール)ほどの広さです。それで若者はビックリしてしまいました。
「それになぁ、10里(40km)もあるカズラがはっとる」と、またまた大きなことを言います。若者たちはますます感心して
「本当ならすばらしい見物だ、見に行こうや」と、かんねと連れになって唐津に引き返しました。

 唐津の裏町に着きましたが、お諏訪さまのような立派な家は見当たりませんし、家が建て込んでいるので、かんねが自慢したような広い庭のある屋敷もありません。かんねは裏町で一番小さく、倒れかかった家の前で立ち止まり
「これが俺の家たい」と言いました。これを聞いた石志の若者たちは呆然として驚きの声も出ません。
「何て!? この小さな家が5万の瓦と豹の皮で葺いた家かい。人を馬鹿にするにもほどがある」と、文句を言いました。するとかんねは平気な顔をして
「誰が5万の瓦、豹の皮と言うたかい。よく家の屋根を見てみろよ。家の屋根は『胡麻の瓦』で葺いてあろうが。また、ところどころ米俵の『俵』でふさいであろうが。俺が言うたことに間違いなかろうが。人の話を聞くときは、よく耳の掃除をして聞くもんよ」こう言われると二の口は継げません。でも、それで引き下がっては気が済みませんから
唐津市石志付近
「そんなら、18里ン芋はどこにあるか?」と尋ねました。
「裏の畑に植えている山芋のことよ。くりくり曲がっているから二九の十八里になる」と、かんねの屁理屈にまたまた参りました。
「それなら、10里のカズラはどれね」
「ほうら、そこにゴリが2つ成っておろうが。合わせて10里」
「そんなら、3斗蒔の田と言うたらどこにある?」
「この田を見てみろ。一度蒔いても芽が出ん。二度目に蒔いたら枯れてしまった。三度目に蒔いてやっと芽が出て、このくらい大きくなった。土地が悪いから、よう育たん。だからこの田は三度蒔きの田たい」
 このように、次から次に言われると二の口は継げず、ブリブリ腹を立てながら、若者は2里の道を引き返して行きました。
              今日の話は、ここまで…。
               (富岡行昌 著 「かんねばなし」より)


2002.7.12  

 

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