靖国参拝は国益を優先すべし
総理大臣の靖国神社参拝で国内の世論が二つに割れている。このことは国内問題だけではなく、外交上の重要な問題に発展しているからややこしい。
私も遺族の一員だが、総理大臣に参拝してもらおうと、もらわなかろうと特別の感慨はなかった。
だが、先日 地区の遺族会で佐賀の護国神社参拝に行ったときに、隣に座った人からこんな話を聞いた。
「私の兄は戦地に赴くとき、私の手をしっかり握って『俺が死んだら靖国神社にいるから会いに来てくれ』と言って出征した。あのときの兄貴の声と、手のぬくもりが今でも忘れられない」
そういえば、戦地から来た私の叔父の手紙にも“死んで靖国の花となる”というようなことが書いてあった。
あの戦争で亡くなった多くの人たちは「靖国で会おう」を合言葉に、勇敢に戦い、そして散っていった。
私の父の魂は靖国神社にいるとは思えない。しかし、多くの戦死者の魂は靖国神社に帰って来ていることも事実だろう。
総理大臣が国民の代表として、祖国のために戦った英霊たちに、哀悼の誠をささげたいとして、参拝に赴くことは当然であり、そのこと自体は、いかに中国・韓国と言えども非難するには当たらない。
ただ、靖国神社にはA級戦犯をはじめ、戦争責任者や戦争指導者が合祀されている。このことには遺族の一員としても違和感がある。
東京裁判の是非は別として、いかなる理由があったにせよ、戦争を計画し指導した人たちと、赤紙一つで戦地に駆り出され、勇敢に戦いながらも力尽きたり、心ならずも病魔におかされ、苦しみながら散っていった人たちとを一緒に祀ることは理解できない。
日本では犯罪人も死んでしまえば同じ仏として容認する思想があるが、諸外国は違う。戦争犯罪者として処刑された人と、戦地に赴き故国のために必死に戦いながら散った人とを合祀することは、彼らの思想からは許されないのだろう。
そういう意味では、中国や韓国が激しく抗議する気持ちも分からなくはない。
総理大臣の靖国参拝が国際問題化し、アジア諸国との外交に大きな閉塞感が出はじめ、引いては諸外国との通商・貿易にまで影響が出そうなことが懸念されるいま、遂に経団連からも参拝中止の要請が出された。
一方で、古賀遺族会長による、靖国神社に対する戦犯分祀の提言も出されようとしている。もっとも、靖国神社側は拒否する姿勢を崩していないが。
また、靖国神社とは別に新たな戦没者追悼施設を造ろうという案も出ているが、こちらは反対も多く、早急にはまとまりそうにもない。
「靖国で会おう」が兵士たちの合言葉だったことを考えれば、戦死者たちの霊は靖国神社にあり、他の追悼施設では参拝しても意味がない。
靖国神社が、かっての戦争に大きくかかわってきたことは事実であり、兵士たちの士気を鼓舞し、あるときは戦争美化に一役かった。一宗教法人である靖国神社を国の要人が参拝することの是非は、憲法問題とも絡んで複雑である。
しかしながら、靖国神社が兵士たちの魂のよりどころであったのであれば、その霊は靖国神社にあり、そこを参拝するのでなければ意味がない。
今後も靖国参拝を続けるのであれば、中国や韓国から言われるからではなく、戦争犯罪人として処刑された人は分祀を促すべきだろう。
もともとA級戦犯は祀ってなかったのを、靖国神社が祀ったもので、靖国神社の勝手といえば勝手だが、ここまで外交問題に発展しているのだから、ここは国益を考えて、靖国側も分祀に踏み切るべきではなかろうか。
仮にそれが実現したとしても、信教の自由という憲法問題の解決にはならない。よって諸外国の要人まで参拝することにはならないだろう。
また中国共産党も韓国の政権も、日本を非難しバッシングすることが、政権維持のための手段となっていることを考えれば、簡単にその矛先を緩めるとは思えない。
しかし、戦没者の霊とその遺族、わが国特有の国民感情、中国や韓国を初めとする諸外国の人たちの思いなどを勘案すれば、今さしあたって必要なことは、戦犯分祀であり、そうすることが国益にもかなうのではなかろうか。
2006・5・13
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