母の手記から1

 月日の経つのは早いもので、あの悲しかった忘れられない寒い寒い雪の日。 主人の出征の日だった。
 あまりの雪に、村の人たちに別れの式もしてもらえず、長部田(ながした)の道を佐志まで歩いて、ようやく軌道車というレールのある車に乗って行かれて、それからは中通りの幸男叔父さんが付いて行って下さった。
 そして淋しい一晩、少しも眠れなかった。
 幸男叔父さんが翌日の夕方帰って来られて、「清市はおさまった(兵隊検査に合格した)ぞ、あの体でどうかな?と思ったが…」と心配そうに言われた。
 というのは、主人は生まれつき体が弱くて、前の年には7ヶ月余り寒水病院に入院もされていた。
 病院通いの日が多かったが、家で養生しながら、時には田畑の仕事にも出、二人で田畑の仕事をした楽しい日もあった。
 「体を大事にして。体を大切にして」といつも話し合っていた。
 私は殆ど毎日と言っていいくらい、上葉(うわば)の山の畑仕事に行っていた。行かない日の方が少ないくらいだった。
 そんな中でも、主人の体や毎日の栄養にも色々と気を使い、体も大分肥えてきて喜んでいた。
 出征の二日前には上葉の山に馬屋の肥(牛糞)を牛にからわせて(背負わせて)行かれた。
 そして、その翌日の朝早くの4時ごろ、まだ夜も明けぬ前に、農協に勤務されていた脇山静雄(ヤスエさんの弟でこの人も後に戦死)さんが、「日が(出征の日が)余りにも早いので、すぐに持って来ました。明日になっています」と言われた。
 あの忘れられない赤紙の召集令状。もうその頃は戦争は負けていたぐらいなので、特別の秘密部隊だった。
 一週間ばかり久留米にいるとのことで、哲夫を連れて、志農夫と松原のマツ代姉と幸男叔父さんと一緒に会いに行った。
 「京子は?」と聞かれた。京子はハシカで連れて来られなかった。口惜しかったけど仕方がなかった。

 その後、どこに渡ったか分からぬままに何ヶ月か過ぎて、ひよっこり簡単な葉書が ビルマ国・ミッチ−ナ県・ニャンゴンという所から「元気でいる」との便りが届いた。
 それからまた何ヶ月かして、南国のフェニックスにかやぶき屋根の兵舎を自分で画いた絵葉書が来て、またすぐ今度はお金が35円(あの頃は大金だった)入った手紙が届いた。
 「この金は親からもらう小遣いも不足しているだろうから、少しだけど小遣いのたしにしてくれ。自分は何もほしいものはないけれど、腕時計がほしかった」と書いてあった。あの日忘れて行かれたのだ。
 すぐにでも送ってやりたかったけれども、もうその頃はこっちから出す葉書など一回も届いた様子はなく、どうしようもなかった。結局それが後に私への形見になった。
 それから後、「お前も大変だろうけど、元気でやってくれ。子供を立派に育ててくれ」という便りが最後だった。
 其の後、実家の弟 利貞がニューギニヤで玉砕。兄 宗市もビルマで戦死した。
 兄まで戦死して、兄には子供がなく、実家はどうなるのだろうか。
 実家の父は「利貞はお国にささげた身だが、宗市が、宗市が…」と言われた。
 父は「せめて清市だけは無事で帰ってきてくれ」と、祈るよう言われたけれど、結局三人とも戦死してしまった。
 口惜しさと寂しまぎれに、父は「お前一人女がいても何の頼りにもならない」と言われたことを覚えている。
 其の後、父は村に何事があっても「俺は三人の息子を死なせて、恥ずかしくて村中を歩けない」と言って、どこへも行かれなくなった。

 家に主人の戦死公報が来たのはもう3年忌も過ぎた頃だった。弟の遺骨は父と二人で佐世保まで迎えに行った。
 兄と主人のは、大分遅くなって唐津の大きなお寺で遺骨を受け取ったこと等忘れる事はできない。
 私たちばかりではない、村では40人余りも戦死された。
 終戦になって、元気だった人はぼつぼつ帰られたけれど、三人ともとうとう帰らなかった。
 家でも、お義父さんもお義母さんも力を落とされたけれど、農業を止めてはやっていけない。 私がしっかりしなければと、田の仕事にも牛を私が使って一生懸命だった。
                                                 bQへつづく

                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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