ここに紹介するのは西日本新聞に 『難民』“私たちに何が出来るか” と題して掲載された、ユニセフ親善大使「黒柳徹子」さんのお話です。
 同じアジアで、同じ人間として生まれてきながら、大人達の都合で、あまりにも過酷な運命に翻弄される難民キャンプの子供達。
 「自分達は何もしていないのに、何も悪くないのに、なぜ殺されなければならないの? なぜ大人達は戦争をするの?」いたいけな子供達の素朴な疑問にあなたは何と答えるだろうか。
 平和な国日本。平和ボケさえ指摘される日本。かっては世界を相手に戦争をした日本。そんな日本だからこそ、いや、日本にしか出来ない何かがあるのではなかろうか。いつも犠牲になるのは弱い立場の老人や女、そして汚れを知らない子供達。
 いま世界には2500万人の難民・避難民がいる。その3割以上がアジアの人々という。絶望と孤独の日々を生きる人々のために私たち日本人は何が出来るだろうか。
 私たちは平和の有難さをかみしめ、世界の平和に、世界の難民に、世界の弱者に目を向け、私たち一人ひとりに出来ることを考えるべきではないでしょうか。
 

子供達の叫び声が聞こえはしませんか

 気温45℃。熱風が砂ぼこりを巻き上げていました。3年間も雨が降っていません。ある家族は土を固めた家に住み、ある家族は地面に大きな穴を掘って、破れたビニールで入り口をふさいでいました。アフガニスタン西部へラートの難民キャンプ。内戦で村が戦場となり、夫を失った女性や子供達13万5000人が集まっていました。
 栄養失調や地雷を踏んで亡くなった子供達の墓がキャンプ地を囲んでいました。墓は土の中に埋めた遺体の大きさに合わせて石ころを舟形に積み上げたもので、子らの生前の体の大きさが分ります。50cmほどの墓を見たとき、幼い子供が世の中のことも知らずに死んでいったのだと胸が詰まりました。
 よろよろと近づいてきたおばあちゃんが私の服を引っ張りながら泣き声で「ノーホープ(希望はない)」と訴えました。ここでは1日に30人の子供が死んでいくというのです。
 へラートのリハビリセンターで出会った10歳ほどの羊飼いの少年は、羊の放牧中に地雷を踏んで左足を失いました。でも、義足をつけて杖をついたら歩けるようになって「また羊と一緒に暮らせるよ。うれしいよ」と笑顔を見せました。
 首都カブールでは、内戦とテロ後の空爆で倒壊した建物の間で、たこ揚げをする子供達を見つけました。タリバン政権時代に娯楽が禁止されていたアフガニスタンで自由の兆しが見え始めたのです。でも、冬の気温は氷点下16度。10歳に満たない男の子たちが氷の上を素足で歩き、5キロ先の給水所まで水くみに行っていました。6歳の男の子の手が肥大して象の皮膚のようにひび割れていたので手袋を渡すと、男の子は手袋を珍しそうに見ながら喜んでいました。
 大人が絶望する状況の中でも、子供たちは希望を持つことを忘れてはいません。

 アフガニスタン難民が大量に流れてくるパキスタン・ペシャワルの難民キャンプで、目の不自由な少女が私の顔を両手で触り、手のひらで肌の感触を確かめながら小声で言いました。「私のお母さんと似てるのね。お母さんはずっと帰ってこないの。でもいつか帰ってくるから、絶対に。だから私はここで待ってるの」
 涙があふれそうになるのを我慢しました。一縷の望みを捨てずに一生懸命生きているこの子らの前で、安易に泣くのは失礼だと思ったからです。
 アジアには子供達が悲惨な生活を送っている国が数多くあります。カンボジアではポル・ポト派に殺害された人達の頭蓋骨とゴミの山のそばで孤児たちが暮らしていました。
 ベトナムでは戦争で米軍が使った枯葉剤の影響で、目がつぶれて顔がのっぺらぼうのようになった少女と出会いました。
 出口が見えない絶望というトンネルの中で希望の光を見つけようとしているアジアの子供の姿。毛布一枚で何人もの子供が助かるという現実。日本人は身近なアジアの国のことを知り、関心を持つべきです。それが私達に出来ることの第一歩です。(黒柳徹子さんのお話より)

2002.06.30  

 

inserted by FC2 system