雪の日の霊界への旅立ち

 2012年2月8日、母が霊界に旅立った。25日が誕生日だったので、96歳まであと17日だったが、実質96歳でいいだろう。
 大正5年2月25日生まれ、2月に生まれて2月に霊界入り。単なる偶然と言えばそれまでだが、 これも何かの因縁と言えるかも知れない。
 2月8日の朝、朝食を済ませ、後片付けが済んだ頃、母を預かってもらっている、グループホーム『ひだまり』から 「お母様の様子がおかしいので、すぐ来て下さい」との電話が入った。 電話の声の様子から「これはただごとではないな、いよいよ来るべき時が来たかな」と直感した。
 そのときは福岡にいたので、唐津の姉に先に行ってくれるように電話して、帰る支度をしていたら、第2報が入った。
「いま、心停止状態になられました」と言うことだった。第1報があってから、わずか10分か15分ぐらいではなかったろうか。 それほど急だったので、先に駆けつけた姉も死に目には会っていない。
90歳頃の母(ひ孫と一緒に)
 唐津への帰り道、西九州自動車道に入った頃から、雪が降りだした。糸島辺りではだんだん激しくなって辺りは真っ白。
唐津に入った頃には、ますます雪が激しくなった。『ひだまり』への坂道が登れるか心配になるほどだったので、 電話を入れたら「まだ道路は凍結していません」との返事だった。
『ひだまり』に着いた時には、きれいに死後の処置がしてあって、歯も入れてあった。飲み込んだら大変なので、 数年前から、入れ歯ははずしていたのだ。死に目には会えなかったものの、穏やかな死に顔を見てホッと一安心。
「朝、急に様子がおかしくなられたので、連絡しましたが間に合わなくて済みませんでした。」 「何の苦しみもなく、安らかに眠るように息を引きとられました。」との言葉に、胸をなでおろした。
 遺体は我が家に運んでもらって、座敷に寝かせた。8年ぶりに我が家に帰って来たのだ。 せめて一晩だけでも静かに寝かせてあげようと、夜遅くまで親戚にも連絡しなかったので、身内だけで水入らずの一晩を 過ごすことができた。
 母は、生前から自分の遺影と死に装束を用意していた。その遺影を前にして、死に目に会えなかった親不孝を詫びた。 福岡に出た時から、こういう時が来るだろうと覚悟はしていたが、やはり不孝は不孝だろうと思ったからだ。 しかし、急だったので、たとえ相賀に居たとしても間に合わなかったろう。
 母は80歳頃から認知症に犯され始めた。この頃に書いたと思われる母の手記がある。 何かを感じるものがあったのだろうか。
 この頃から周りの人にも迷惑を掛けるようになっていたのだろう、わがままで、間違っていても我を通すから、 それまで親しかった友人たちも、少しずつ距離をおいて遠ざかるようになった。
 そんなある日、庭先の掃除をしていて転び、大たい骨を骨折した。89歳になったばかりの頃だったろうか。 入院から手術、施設でのリハビリと続けたが、認知症は深まるばかりで、リハビリも熱心にやらないため、 ついに歩けなくなってしまった。
 家に帰りたがったが、歩けないまま認知症の進んだ母を家に連れて帰れば、介護に追われて家族も共倒れになると思ったし、 母のためにも、介護の専門家に任せたほうがいいと思い、施設に入れる決断をした。
若い頃の母
 これについては、周りから色々言われたようだ。私の耳には入らなかったが、特に妻への風当たりは強く、 面と向かって言われたこともあったという。
 でも、姉は何も言わなかった。むしろ「当然施設の方が家族のためにも、本人のためにもいい」と言ってくれた。 認知症の介護は、とても家族だけでは無理で、家族も共倒れになると身をもって体験していたからだろう。
 結果として、母は『ひだまり』での、家族も及ばない献身的な介護で、96歳まで生きてくれた。 あのまま家で面倒を見ていたら、とてもここまでは生きていなかったろう。
 他の施設で介護の仕事をしていた娘がよく言っていた「ばあちゃんの認知症は、若い頃人一倍苦労した分、過去を忘れ、 ゆっくり休むように、神様が呉れたご褒美だよ」と。
 なるほど、そうだったのかも知れない。若い頃は、戦争で連れ合いをなくし、頼みとする兄も弟も戦死して、女ながら男と同じ 農作業をしながら私たちを育ててくれたのだから。《戦争と母》
 通夜の夜、『ひだまり』の社長はじめ、従業員の皆さんが、続々と参拝に来て、母の遺影の前でボロボロ涙を流してくれた。 その姿を見て感動した息子が「あの人たちは、あそこまで気持を入れて介護してくれていたんだね。家族だって、ああは行かないよね」 と言った。
 そう言う息子の目にも涙がにじんでいたし、私もこみ上げてくる熱いものを抑えることができなかった。
母の気持ちは聴くことはできないが、施設のお世話になったことは間違いではなかったと、つくづく思う。
『ひだまり』に入ってからは、家に帰りたいとは一言も言わなくなったし、見舞いに行って「もう帰るよ。又来るけんね」と、 言ったら「もう帰るてや、ご飯ぐらい食べて帰れ」と言ったこともあったし、「いま、畑の草取りに行って来た。」 なんて言ったこともあった。母にとって、そこは正に相賀の我が家だったのだろう。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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