「波多川にゃカッパのおる」 村人たちがそう言いだしたのは、江戸時代の終わりの頃のことでした。
あちこちによどみがあって、そこは川が深みになっていて、雨が強く降るとすぐに川の水が溢れ出していました。
川岸は荒れるにまかせ、笹藪があったりして、昼間でも薄暗く、この波多川では一番深いと言われている所でした。そこは『しどのこうじ』と呼ばれていました。
そんな『しどのこうじ』にカッパが現れたというのです。
6月も半ばの、ある大雨の後のことでした。
「波多川にゃカッパのおる」 この噂が流れて10日ばかり経ったある日、一頭の馬が『しどのこうじ』に浮かびました。
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波多神社前で遊ぶカッパ
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集まった村人数人が馬を引き上げてみると、馬はすでに死んでおりました。
身体に傷はありませんでしたが、驚いたことに、お腹の臓物がすっかり抜き取られていました。
「カッパの仕業ばい。波多川にゃ、カッパんおる。こん前の大水の時やって来たったい。ほんなこて波多川にゃカッパのおるばい。」
村じゅうの人たちは気味悪そうに、そんな話をし合っていました。
村の人たちは子供たちに言いました。
「波多川の『しどのこうじ』に遊びに行ったらいかん。ほんなこてカッパんおるらしかけんな。」
「『しどのこうじ』の川岸で遊んでんいかん。カッパん手はな、長うに、にゅ〜っと伸びるちゅう。右手ばにゅ〜と伸ばすと、左手は縮むらしか」
「ほら、こやんふうに」と身振り手振りで孫に言って聞かせる、おじいちゃんやおばあちゃんもありました。
「カッパはなァ。馬や人間の臓物が大好きらしか。お尻から手ば突っ込んで、臓物ば抜き取るちゅうぞ」
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現在の徳須恵川(波多川)
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子供たちは恐がりました。しかし、その恐いカッパを見たいとも思いました。
頭に皿があるとか、皿に水を溜めると千人力の力が出るとか、一方の手が伸びると、もう一方の手は縮むなどと聞かされると、なおさら見たくなりました。
子供たちは昼間、数人、あるいは十数人で『しどのこうじ』に出かけて行きました。後から仲間たちが次々にやって来ます。
手をしっかりつなぎ合って、笹薮の陰から息をころして川岸を覗いてみました。でも、そのときはカッパを見ることはできませんでした。
梅雨が明けて、真夏の太陽がカンカンと照りつけだしました。
波多川は子供たちの泳ぎ場でしたが、その泳ぎ場をなくした子供たちはつらかったのです。
「カッパんおる」とは言っても、「カッパん出た」と言う人も、「カッパば見た」と言う人もありませんでした。
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現在の天満神社
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「カッパは何処さんか行ってしもうた」
「カッパはもうおらん」
「カッパのおるなんて、うさごつ(嘘)たい」 子供たちはそう言い出しました。
でも、やっぱり恐かったのです。気味悪かったのです。子供たちは深みには行かず、浅い所で水遊びをしていました。
「カッパは石ば投げて驚かしたら出て来ん」と、大人たちに教えられ、皆でどんどん石を投げ込んでから遊びました。それでもやっぱり泳ぐ子供はいませんでした。
ある日のこと。徳須恵の天満神社の第九代宮司 堤丹後守五十鈴(つつみたんごのかみいすず)は本を読んでいました。
川岸に近い丹後守の部屋には、時々涼しい風が吹き込んできて、庭には真夏の午後の日差しが、ギラギラと光っていました。
「助けて〜!。カッパだ。助けて〜ェ!!」 けたたましい声が飛び込んで来ました。子供の声で、『しどのこうじ』の方から聞こえてきます。
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現在の波多神社
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パタリと本を閉じた丹後守は、サッと立ち上がると、床の間に飾ってあった短剣をつかんで、家を飛び出しました。
『しどのこうじ』には、10人余りの村人が駆けつけていましたが、みんな川岸に立って震えているばかりでした。
丹後守は村人を押しのけて川岸に出ました。
鞘を払って短剣を口にくわえると、着物は着たまま頭からザンブと飛び込むと、あっという間に水中に消えました。
波紋が大きく広がって消え、水面はまた静まりかえりました。
仲間の一人を引きずり込まれた数人の子供や、集まって来た村人たちは息をころして、じっと水面を見つめていました。
かなりの時間が経ったように感じました。水面が泡立ち、村人たちがハッとしたとき、丹後守の顔が水面に現れ、次いで子供の顔が現れました。
丹後守は子供を抱きかかえていました。子供は無事だったのです。
丹後守が川岸に立ったとき、水面が赤く染まりました。
そのとき、右目を押さえたカッパが水面に顔を出しました。
「これからは村人にいたずらはせんばってん、お前の子供には七代までたたってやる。右ん目にホシば入れてやるぞ」
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波多神社の宝剣の由来
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うらみに満ちた声でそう言うと、カッパは水中に姿を消しました。
その後丹後守は北波多村稗田の波多神社の宮司になりました。カッパの目を突いた刃渡り8寸(約24p)の両刃の短剣は、波多神社に宝剣として納められました。
ところで、明治の半ば頃、北波多村の炭鉱から掘り出された石炭は、船で川を下り、唐津へ運ばれていました。
石炭船の人たちは、時々カッパの家族を見かけたそうですが、カッパの家族は岸辺に並んで、のんびりと日向ぼっこをしていたそうです。
何のいたずらもしないカッパたちでしたので、「徳須恵川んカッパはおとなしか」と、石炭船の人たちは語っていたそうです。
カッパは丹後守との約束を守り続けて、村人に危害を加えることはなかったのです。
丹後守の子孫の目がどうなったのか、それは分かりません。
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『ごん太』
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徳須恵橋の欄干で遊ぶカッパの『はたママ』
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波多川は現在の徳須恵川です。北波多のほぼ真ん中を流れています。
河川改修工事が行われましたので、『いろは曲がり』は今はありません。カッパもどこかに行ってしまったらしいのです。
昭和20年の秋、太平洋戦争後日本に来たアメリカ兵が、波多神社にやって来て、カッパの目を突いた短剣を持ち去り、行方が分からなくなっていました。
ところが昭和39年の東京オリンピックの年、数ふりの刀が日本に返され、その中の一ふりが、丹後守のカッパ退治の短剣でした。
今は波多神社の社宝となっています。
唐津市北波多はカッパの里として、現在もいたるところに、カッパの焼き物や置物が飾られています。
佐賀県小学校教育研究会 国語部会編より
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