郷土の伝説  

 

 

 
 『日本三大悲恋伝説』  
狭手彦後日談

 大和朝廷と親交のあった任那(みまな)を、新羅(しらぎ)の侵略から救うため、狭手彦(さでひこ)は天皇の勅命を受けて朝鮮半島に渡りました。
 新羅の国の馬山に到着した狭手彦は、兄の大伴盤(おおとものいわお)とともに、新羅兵の抵抗を排除しながら、正々堂々と進軍を開始しました。

玄界灘に浮かぶ加唐島(右)と松島(左)
 各所に転戦した狭手彦軍は、あるときには破竹の勢いで新羅兵を討伐し、またあるときは非常に苦戦を強いられたこともありましたが、ついに新羅国を平定降伏させ、新羅国王に対して、任那国の侵略地を返還させました。
 更に狭手彦は任那国の兵制改革を行い、政治、経済、産業、農事、税制、衛生、法制にいたるまで、懇切丁寧に指導しました。
 これでやっと任那国は平安に治まりましたので、国民の喜びは大きく、狭手彦は救国の神父として敬われたのでした。
 こうして宣化天皇勅命の大任を果たした狭手彦は、任那国王に別れを告げる日がやって来ました。
 別れを惜しむ国王をはじめ、大勢の国民の見送りを受けながら、帰国の途についたのは、朝鮮半島に渡って3ヵ年の星霜を経ていました。

姫神島:現在の加部島には橋が架かっている
 初秋の風を受けながら、馬山の港を出港して、途中対馬に2泊、壱岐に1泊して島民の大歓待を受け、加唐島(かからしま)、加部島(かべしま)、七つ釜、神集島(かしわじま)などの懐かしい島々を眺めながら、めでたく松浦の里、唐土(唐津)の浦に凱旋上陸しました。
 狭手彦をはじめ、凱旋将兵たちは、人々の歓喜の出迎えを受けました。
 近郷はもちろん、遠くは筑前(福岡)からまで集まった老若男女は、歓呼の声をもってこれを迎えましたので、その数は実に数千・数万にも達し、唐土の浦海岸は時ならぬ賑わいをみせました。
 しかし、狭手彦を真っ先に喜び迎えてくれるはずの、恋しい佐用姫の姿はどこにも見当たりません。
 佐用姫が既に帰らぬ人となったことを知った狭手彦の落胆ぶりは、見てはいられないほどでした。
狭手彦が往復眺めたと思われる「七つ釜」
 さすがに勇猛な将軍 狭手彦も、佐用姫に対する恋慕の情がこみ上げて、涙を隠すことができませんでした。
 狭手彦は長旅の疲れもいとわず、姫神島(加部島)に渡り、佐用姫の化身零石に取りすがり、まるで生きている人に語りかけるように、涙ながらに別れを告げました。
 「島で一番眺めの良い場所に、佐用姫の菩提をねんごろに弔って下さい」と島民に頼み、別れを惜しむ島民の見送りを受けながら、唐土の浦に戻りました。

 更に狭手彦は篠原村に向かい、佐用姫の両親や村人たちに厚く礼を述べ、涙ながらに永遠の別れを告げました。
立神岩と神集島(後方)の間を通って唐津湾へ
 惜別の情を禁じ得ない狭手彦でしたが、断腸の思いを抱きながら、将兵を率いて陸路淋しく篠原村を出発しようとしました。
 そこへ、亡き佐用姫の無二の親友 楓姫(かえでひめ)の両親である筑紫長者と、佐用姫の両親 篠原長者が、楓姫を連れて狭手彦の前に駆けつけました。
「今は亡き佐用姫の身代わりとして、どうか楓姫を都に連れ帰ってください」と、切にお願いしました。
 楓姫もまた、佐用姫に劣らぬ美貌の持ち主でした。
 狭手彦はこれを深く喜び、
「吾が希望と悦びはこれに越したるものなし」と、改めて狭手彦の方から筑紫長者にお願いして、楓姫を最愛の妻として迎えることにしました。
松浦の里唐土浦:現在の唐津湾
 篠原長者の館で、式典と披露の宴を簡単に済ませた狭手彦は、楓姫を伴い、仲睦まじく、篠原長者や筑紫長者、そのほか大勢の人々からの見送りを受けながら、都に上りました。
 都に着いた狭手彦は、すぐさま兄の盤や主だった将士を連れて宮中に参内し、天皇に凱旋報告をしました。
 天皇は深くこれを喜ばれ、その労をねぎらうとともに、狭手彦以下出征兵士全員に対して、手厚い恩賞を下されたのでした。

                      


2007.12.7

 

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