郷土の伝説  

 

 

 
 『日本三大悲恋伝説』  
佐用姫物語 その3

現在の松浦川:中央が鏡山(領布振山)
 夫、狭手彦は戦に出発したのです。今生の別れになるかもしれません。そう思うと佐用姫は居ても立ってもいられなくなりました。
 佐用姫は鏡山に駆け登ると、狭手彦の軍船を見送りました。
 松浦の港から船出した船は、旗を風になびかせながら沖に向かっていました。
 佐用姫は狭手彦の名を声を限りに呼びながら、千切れるほどに領布(ひれ)を振りました。そのことから鏡山は別名「領布振山(ひれふりやま)」とも呼ばれるようになりました。
 鏡山の山頂には、佐用姫がよじ登って領布を振った松といわれる「領布振松」も残っていましたが、残念ながら昭和20年8月、日本敗戦とともに枯れてしまいました。現在植えられている松は三代目といわれています。
松浦川のほとりにある佐用姫岩
 次第に船が追い風に帆をはらませて遠ざかるにつれ、佐用姫は物狂ったように、船を追って鏡山を馳せ下り、松浦川を一跳びに跳び渡りました。
 この松浦川の河辺には「佐用姫岩」と呼ばれる岩があり、その岩の表面には佐用姫が跳んだ足跡という大きな窪みが今も残っています。
 岩に跳び渡ったとき、佐用姫は狭手彦の分身として温めていた、大切な大切な鏡を川の中に落としてしまいました。
 狭手彦の肩身ともいうべき鏡をなくしては、狭手彦との縁が永遠に切れるような不吉さを感じた佐用姫は、川の中を何度も何度も必至に探しました。
 しかし、どうしても見つからず、鏡は二度と佐用姫の手に戻ることはありませんでした。
佐用姫が濡れた着物を乾かした衣干山
 泣く泣く諦めて、さらに西に走り加羅津(唐津)に着きました。
 そこで佐用姫は小高い山に登り、松浦川で濡れた着物を干しながら、加羅津湾を眺めましたが、狭手彦の軍船は、沖合いの島陰に隠れて見えませんでした。
 現在も唐津湾を望む小高い山に「衣干山(きぬぼしやま)」という地名が残っています。

 さらに佐用姫は走りました。佐志から打上を走りぬけ、呼子の鞆(とも)の浦まで走って、船で加部島(かべしま)に渡りました。
 加部島に渡った佐用姫は、天童岳に駆け登ると、はるか海路に目を凝らしました。沖合を遠く走り去る軍船を見つけると、佐用姫は声を限りに狭手彦の名を呼びました。
佐用姫神社:中に望夫石が祀られている
 佐用姫の声が届くはずもなく、やがて船影は見えなくなりました。佐用姫は天を仰いで嘆息し、身を打ち伏して泣き崩れました。
 その地で佐用姫は、狭手彦恋しさ、苦しさに身をよじりながら、何日も何日も泣き明かしました。
 そして涙も枯れはて、身動きしなくなった佐用姫は、遂に石になってしまったのでした。
 その石は、今も加部島にある田島神社の境内に、佐用姫神社として祀られ、望夫石(ぼうふせき)と呼ばれています。

 やがて、狭手彦は敵を鎮圧し、戦功をうちたてて松浦の里に凱旋しました。しかし、そこには恋しい佐用姫の姿はすでに亡かったのでした。
 佐用姫の死を聞くと、狭手彦は大いに嘆き悲しみました。
 なぜ自分の帰りを信じて、待っていてはくれなかったのか、悔やまれて仕方がなかったのでした。
 狭手彦は、百済から持ち帰った観世音を鏡山の麓に祀り、佐用姫の霊を弔いました。それが現在の「赤水観音」といわれています。

                                   おわり

 この物語はここで終りますが、佐用姫伝説には他にも色々な説があります。後日、その一部をご紹介しましょう。


2007.4.14

 

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