『日本三大悲恋伝説』
佐用姫物語 その2
長者の屋敷には桜の木が数百本もあり、池の周りにはきれいな花が咲き乱れ、春風にゆれていました。
屋敷の中を流れる水はとても綺麗で、川の底には小石が宝石を散りばめたように、キラキラと輝いていました。
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現在の玉島川:当時はこの辺りはまだ海だった
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松浦潟の海はあくまでも青く、空は澄み渡り、辺りの山々は夕日に映え、周りのすべてが二人を祝福しているようでした。
佐用姫(さよひめ)は狭手彦(さでひこ)との幸せな毎日に陶酔しました。
「ああ、神様 この幸せがいつまでも、いつまでも続きますように…」
そうはいかない運命にあることが分かっているだけに、佐用姫は祈らずにはいられませんでした。
それからの数ヶ月、夢のような日々が過ぎてゆきました。
狭手彦も幸せでした。権謀術策で明け暮れる都も、老獪な政治家である父の大伴金村(おおとものかなむら)も、その父と対立している蘇我一族の不気味な影さえも、若い貴公子狭手彦は忘れていました。
佐用姫との日々に、これから生臭い戦さに赴く、若く柔らかな男の心は、慰められました。過ぎて行く日々の何と美しく、早かったことでしょう。
やがて軍船は出来上がり、物資の調達も済み、新羅(しらぎ)征伐の準備がすっかり出来上がりました。そして、とうとう出発の朝を迎えたのでした。
狭手彦は遠く海を渡って戦場に赴きます。もう二度と逢えないかもしれません。
佐用姫の心はおおいに乱れました。
「狭手彦さま、私も連れて行ってください」
「私とて、出来るものならそうしたい。でも、それは出来ない。私は戦にいくのだよ。分かってくれ佐用姫」
一度は自分も連れて行ってくれと頼んではみた佐用姫でしたが、女の身で戦場について行けるはずがないことは、分かりきっていました。
佐用姫も日本の女性です。今はきっぱりと思い切り、けなげにも、かいがいしく狭手彦の世話をしていました。
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現在の玉島川口:当時はもっと上流だったと思われる
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船は玉島川(現在の唐津市浜玉町)の河口に集結していて、近郷から山のように大勢の人が見送りに来ていました。
船手の人々のどよめく声が走る中で、佐用姫は狭手彦に晴着を着せかけていましたが、狭手彦のりりしい将軍ぶりに、
「ああ、私も男になりたい。そうしたら、あなたとどこまでも一緒に行けるのに」
と、佐用姫は嘆きました。
狭手彦とて、別れはつらいのです。<何としても戦さに勝って帰らなければ…>そう、心に固く誓うのでした。
狭手彦は佐用姫をかき抱くと
「きっと勝って帰ってくる。凱旋の日を待っていてくれ。それまでの辛抱だ。父上と達者で暮らせよ」
その声は、すでに戦に赴く若い王者の荒々しい気迫に充ちたものでした。それが佐用姫には頼もしくもあり、心淋しくも思えたのでした。
狭手彦は見送りの人々に、世話になった感謝の気持ちを伝え、別れを告げると、佐用姫に走り寄り、鏡と短刀を手渡しました。
「よいか。この鏡を私と思って待っているのだよ」
そう言い残して、3000人の将士を引き連れて、船出して行きました。
ときに宣化3年(539)初秋、狭手彦が松浦の里に着いて9ヶ月余りが過ぎた頃でした。
つづく
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