郷土の伝説  

 

 

 今から700年ほど昔(鎌倉時代の中頃)、元の国(今の中国)の軍が、九州に押し寄せてきました。
 幸いにも、そのときは大嵐が吹き荒れ、元(げん)の舟は殆ど沈んでしまいました。
 しかし、元が再び九州を襲うというので、北部九州では戦の準備が進められていました。そのため、年貢の取立てがとても厳しく行われていました。
 食べるにも困る百姓も多かったので、こっそり新しい田を開き、米を作る者もありました。
 その田を人々は「隠田(かくしだ)」と呼んでいました。
 百姓たちは、よその村の人に隠田の事は絶対に言いませんでした。隠田を持っていることが知れれば、厳しいお咎めを受けるからです。
 その頃、松浦郡玉島の里(現在の唐津市浜玉町玉島)に関清治という武芸にすぐれた武士が住んでいました。
 清治は穏やかな人でしたし、村人と一緒に汗を流して働きましたので、村人からも慕われていました。
 清治は、妻のおさよ、娘のかよと幸せに暮らしていました。かなりの広さの隠田を持っていましたので、、比較的豊な生活をしていたのでした。

現在の唐津市は浜玉町玉島付近
 城主の命令で、博多湾を守るための工事に出かけていた清治は、春になったので願い出て、田仕事のために玉島に帰ることにしました。
 玉島に帰る途中、隣村の浜窪(はまくぼ)の家に立ち寄りました。浜窪は武芸を磨き合う仲間の一人で、何かにつけて励まし合ってきました。
 清治は酒のもてなしを受け、久しぶりに会った二人の間の話は弾みました。
 村に帰れる喜びもあって、酒を飲んで気持ちが緩んでいたのでしょうか、清治は、隠田のことを浜窪に話してしまいました。
 家に帰って数日後の朝でした。そのとき、親子三人は揃って朝の食事をしていました。
 娘かよは父清治に甘えていました。家の中は、明るいかよの笑い声でいっぱいでした。
 そこへ奉行所の役人がやって来て言いました。
「取り調べたいことがある。奉行所へ連れて行く」。冷たく厳しい声でした。
 清治はその場で縄を掛けられ、妻と娘に声をかける間さえ与えられませんでした。
 青ざめた妻と娘の顔を後に、役人は清治を連れて家を出ましたが、清治には何が何だか、まったく訳が分からないままでした。
 奉行所に着くと、すぐに取り調べが始まりました。
「隠田のことを白状せよ」と攻め立てられました。清治は黙っていました。でも、役人は隠田の場所も広さも知っていました。
 清治の土地は全部取り上げられることになり、そのうえ「玉島の里から出て行け」と言い渡されました。
 年貢が重く隠田がなければ生きていけないことを、清治ははっきりと言いたかったのですが、そうすれば玉島の里の人々に迷惑をかけることになります。
 隠田のことは、奉行所に誰かが訴えたときだけ、咎められました。隠田がなければ生きていけないことを、奉行所の役人たちも知っていたのでした。

 家に帰った清治は、妻と娘には何も言いませんでした。
 部屋に閉じこもって、奉行所に訴えたのは誰か、清治はそればかりを考えていました。
 浜窪に話したことを思い出すまでには、かなりの時間が経っていました。
 訴えたのは浜窪だ。清治はそう考えました。怒りと憎しみのため、いつもの冷静さを忘れ、我をも忘れて、考えるゆとりさえ失っていました。
 その日の真夜中、清治は浜窪の家に押しかけ、浜窪を切って逃げました。
 清治の振る舞いを怒った奉行所の役人は、妻のおさよに清治の行方を尋ねました。
「何も知りません」そう言い張りますので、役人はおさよと娘のかよを捕らえて牢に入れました。そして、毎日厳しい取り調べを続けたのでした。
 が、おさよは「知らない」と言うだけでした。
「おさよは本当に知らないのではないか」と言う役人もおりました。
 しかし、「もう一度取り調べよう」ということになり、今度は特別な方法をとることになりました。
 奉行所の庭に清治の妻と娘が引き出され、牢の中では引き離されていた母と娘は、数日振りに顔を合わせました。
 二人とも疲れきっていて、目も窪んでいました。
「母さま」と呼びかけるかよの声は、か細く力のないものでした。
 役人はおさよに鼓を渡し、それを打てと命じました。
 おさよが鼓を一つ打つと、役人が青竹で娘のかよの背中を一つ打つ。
「清治の行方を白状せよ」
「存じません」
「鼓を打て」
 鼓を打つと、青竹がかよの背中に振り下ろされる。でも、かよは泣き声一つたてませんでした。
「夫政治の行方は本当に存じません。娘を打たないで下さい。打つなら私を打ってください。私を殺してください」
 そう言い終わると、おさよは倒れてしまいました。
 かよは役人の手を振り払い、母の側に駆け寄りました。
「母さま」と必死に呼びましたが、母は何も答えませんでした。
清流玉島川

 風の便りに妻と娘の最期を知った政治は、刀を捨てて奉行所に出頭しました。そのとき清治は生きていく気力も失っていたのでした。
 清治は死を覚悟していました。ところが、奉行所の役人は清治を許しました。
 「おさよとかよは、立派な妻子であった。妻子の墓を建て、末永く祀れ」
 許された政治は頭を丸め、お坊さんになりました。
 二人の墓を建て、冥福を祈る毎日で、夜遅くまでお経をあげる声が聞こえました。
 ところが、ある秋の夜、ぷっつりとお経の声が途絶えてしまいました。清治は二人の墓の前で、冷たくなっていたのでした。

 関清治親子三人の痛ましい運命に涙を流した玉島の里の人たちは、二人の墓の側に清治の墓を建ててやりました。
 そして、三人の墓の側に一本の松を植えました。
 伸びた松の枝が三人の墓の上を覆うように、松はすくすくと成長しました。まるで三人の墓を守るかのように。
 ところがある日、墓に参った村人が気づきました。松の葉が、大が二つ、小が一つの三つ葉になっていたのです。
 いつの間にこうなっていたのか誰も知りませんでした。植えるときには確かに二葉だったのです。
 村人たちは、あまりの不思議さに驚き、あらためて清治親子三人を偲んで涙を流しました。
 いつしか村人たちは、この松を「三つ葉の松」と呼ぶようになりました。
 現在、浜玉町玉島を流れる玉島川の中流の土手の一隅に、三つの五輪の塔が寄り添うようにひっそりと建っています。
 これが清治親子三人の墓と言われています。

                     佐賀県小学校教育研究会 国語部会編より


2008.7.5

 

inserted by FC2 system