郷土の伝説  

 

 

 
 『日本三大悲恋伝説』  
佐用姫物語 その1

 唐津湾が、鏡山のふもと付近まで白波が打ち寄せていた昔、それも今から1500年近くも前のことだといいますから、はるかに昔のことです。
 松浦(まつら・今の佐賀県唐津市付近)の篠原の里に、佐用姫(さよひめ)という世にもまれなる美しい娘がいました。
 父は篠原長者と呼ばれる土地の豪族でしたので、娘はその庇護の下でなに不自由なく、伸び伸びと育っていました。
現在の唐津湾
 里の者たちは、いずれ立派な婿殿を選ばれるだろうと、わがことのように佐用姫を誇りに思っていました。しかし、佐用姫は年頃になってもなお、野や山を駆け回る自由奔放な娘でもありました。
 佐用姫が19歳になったある日のこと、父の篠原長者がいつになくあらたまって佐用姫に言いました。
「近々、都から大伴狭手彦(おおとものさでひこ)さまとおっしゃる、身分の高いお方をお迎えすることになった。そのお方は遠い朝鮮の国に戦さに征かれる。それまでそのお方のお世話をしておくれ」
 娘はつぶらでおおらかな光をたたえた眼差しで父を見ながら、
「そのお方は、お父様より偉いの」
篠原長者は苦笑を浮かべ、
「ああ、わしとは比較にならぬ。何といっても大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)さまのご子息だからな」
 大伴金村といえば、篠原長者にとっては遠い星のような存在で、当時の朝廷における最大の権力者と、おそれられている人でした。
 継体天皇を越前から呼び寄せて即位させ、その崩御の後は安閑天皇、宣化天皇を推したのも金村でした。天皇を意のままに動かす、老かいな人物として天下に鳴り響いていました。
 その頃朝鮮半島に任那(みまな)という国があって、隣国新羅(しらぎ)に絶えず侵略されていました。そこで、任那と親交を結んでいた大和朝廷は、新羅征伐の大任に、大連の大伴金村を命じたのでした。
 金村は二人の息子のうち、兄の磐(いわ)を筑紫の国の防衛に、弟の狭手彦を任那救援に向かわせました。
鏡山・当時はこの辺りまで波が打ち寄せていた
 そして、その狭手彦は最前線基地に松浦潟を選んだのでした。
 出陣のための軍船の建造や食糧・物資の調達補給には相当の日数がかかります。その間の滞在には篠原長者の館に決まりました。それだけに、長者の感激も緊張もひとしおだったのでしょう。
 狭手彦の身の回りの世話を佐用姫にと考えたのは、身分の高い若い将軍に下婢などでは失礼にあたると思ってだったのですが、秘かに娘と狭手彦が結ばれるのを期待する心もあったのでした。

 それから数日経ったある日、篠原長者の館の門前に、美々しい供ぞろいを従えた大伴狭手彦が、ひらりと馬から降り立ちました。そのとき狭手彦は25歳、その気品はまさにあたりをはらうようで、それでいて戦さを指揮する将軍だけあって、堂々たる逞しさも備えていました。
 迎えの列に加わっていた佐用姫は、狭手彦を一目見たときから、そのりりしい姿に心を奪われてしまいました。
「この方だわ。私が今まで待っていたのはこの方だったのだわ」
そう、心でつぶやいた佐用姫は、都の若き貴公子狭手彦に熱き視線を向けたのでした。
 佐用姫の胸の中には熱いものがこみ上げ、激しくときめきました。  そのとき、狭手彦の方もまた佐用姫に目を留め、
「おまえの名は何という」
「私は佐用といいます」
 佐用姫は、都からやって来た、まぶしいばかりの若き将軍に物怖じすることもなく、涼やかな声で応えました。
 狭手彦はその素直さに目を見張り、急速にこの美しい娘に惹かれていく自分を感じていました。お互いに一目ぼれだったのです。
生誕の地といわれる唐津市厳木町の佐用姫像
 低く、男らしい声で尋ねる狭手彦を、佐用姫は微笑みながらまじまじと見上げました。そこには汚れを知らない澄んだつぶらな瞳がありました。
 狭手彦は、やにわに佐用姫を抱き上げると、乗ってきた馬に乗せました。そして、一鞭あてると、馬は天空馬のように駆け出しました。父の長者も供の者も、あれよと見ている一瞬のことでした。
 二人を乗せた馬は、丘を越え、野を越えて、まるで若い神々のように、草いきれの中を駆け廻りました。
「私はおまえが気に入った。さあ父上のところに行こう」
「わたしもよ。初めて見た瞬間からそんな気がして、もう心に決めたの」
 美しい姫の唇からもれる言葉の奔放さに、都の貴公子狭手彦は、初めて生きて輝いている女を知ったと思いました。
 若い二人は、たちまち激しい恋に陥りました。いつか別れのあることが、なおさら二人を強く結びつけ、お互いの思慕の念を純粋に、一途に、かつ激しく強くさせたのでした。

                                    つづく


2007.2.5

 

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